白隠記念館開設に当たって



1686年現在沼津市原に長沢家の三男として生まれ、15歳に出家して慧鶴と名のった。
沼津大聖寺息道に師事し、19歳で諸国行脚に出かける。

初めての行脚で白隠禅師の生涯に残る三つの出来事があったと思います
一は瑞雲寺での慈明引錐自刺
二には松山正宗寺で「仏祖三経」を聴き決定し仏道の奥底に達したと確信します
この二つの座右の銘と、同じ四国に於いて四国藩の侍の所持する
「大愚禅師」の墨跡に遇いその筆遣いの鮮やかさとその巧妙さ感喜し
「これは何と徳の徳たるか所以、全く文字の巧拙にあづからず」と後の白隠の意の赴くままの
「一点一画」を生む動機となるものをここに得たのではないかということです。

富士山の大噴火の翌年越後高田の御霊屋に夜坐禅して遠寺の鐘声を聞いて大悟し、
病気になる前に正受老人の処に行きます。
正受老人の下で修行の完成後、あまりの激しい悟後之修行の無理が出て病を得る
更に信州飯山の正受老人を尋ね修禅すること八ヶ月遂にその奥を窮め嗣法する。
その後あまりの後悟の修行の厳しさに遂には病魔に冒され、京白川に白幽仙人を訪ね
「内観修養の秘訣」を受けて完治す。

34歳で松蔭寺に住し白隠と号す。
白隠はまるで幼児が母の乳慕する様な大衆の希望に応えるように寝食を忘れ
東奔西走の生涯を原の寒村貧寺で生涯を送ります。
その間多くの著書と一万点に及ぶ禅画を残しました。

今回のこの記念館にはおおよそ八十年前全国から
200点の応募のあった白隠禅師遺墨展の禅画から一部を紹介致します。
沼津に当時ありました禅画でも半数程が戦災で消失しております。
その他持ち主の代わったもの、終戦直後の財産税などで海外流失したものなど多数有ると思います。
新たな発見がそこに有れば幸いです。

駿河の国に過ぎたるものが二つある 富士のお山に 原の白隠
沼津に白隠記念館が無いなら、せめてもブログ上でと今回企画しました。
沼津に白隠記念館の建設を夢見ての思いを込めて

                                  平成25年4月仏誕生の日     花園隠居



白隠禅師


白隠禅師の生涯を二つに分けると前は慧鶴の「自利行」の時期であり、後は「利他行」の時期であります。

私たちは何気なしに「済みません」と言う言葉をよく使います。
仏の教えでは「積善」と言って、「善い行いを積んで行け」と教えております。
それは前世に於いて、又現世に於いてお世話になった人たち、或いはもの達、諸縁をもって
自分を育ててくれた「もの」にそのお返しが「済んでいない」、
そのお返しを行う事が「利他行」では無かろうかと思うのです。

今まで多くの人々に支えられて、慧鶴は得道しました。これまでは「自利の行い」であります。
後編の松蔭寺への晋山そして妙心寺第一座として松蔭寺の住職と成られてから次の
「情けある 辛きも遠くなりはてぬ 嬉しやよその山はたずねじ」
の気持ちを生涯貫き通しての一貫した白隠の「利他行」の生涯ではなかったかと思います。

膨大な禅画、著書、白隠禅師独自の公案「隻手の声」、多くの大会ダイエでの講座、
提唱説教などは直接多くの人材と禅の宗匠方を世に送り出しました。

白隠禅師の得処を具に見ますと
一には禅師15,6歳にして初心に大疑を抱いて24歳に至りその根本を見透した事
二つには飯山正受庵を尋ね親しく正受老人に参禅し、その深理を研鑽し嗣法した事
三には禅師が自らご自分の「動静の矛盾」を感じ悟後の修行に挑み続け、
再び自分の精錬を加える事を志したことでしょう。
続いて白隠の著書の紹介を致しておきます。

白隠の著書
毒語心経
一般によく知られる般若心経の本文に禅師が手を加えて「著語」と頌(評価と己の考え漢詩にしたもの)
とを注釈したもの。禅師独特の筆を揮い、世間の学者の解釈の誤りを正している。
また、微に入り細に亘って、般若心経の真面目を躍如とするものがある。60歳。

遠羅天釜
禅師が浄土宗門徒の知人と交わした書簡。
もともと遊戯遊びの作者の文章などとはその選び方は別物として、
文章自体には特別に批評すべきものはないとしながらも、
一声一声が真面目であり大文字の筆の力は驚嘆させられるのであります。64歳。

遠羅天釜続集
「於仁安佐美 浄蔵浄眼」
二大士に上った書。沢山の歴史の上での、寓話作り話を取り上げて仏教の修行の大切さと工夫の仕方を教えている。

夜船閑話
窮乏庵主の序文には、宝暦七年正月二十五日の日付けが書いてある。
神仙錬丹の術、病を養うの書、長生久視の秘法が記されている。
禅師が白川仙人に自ら学ばれた様子が書かれている。71歳。

仮名法語
白隠下の居士に書かれた一文が収められている。庵原平某との問答書簡。
坐禅工夫については大変に見るべきものがある。

藪柑子
三教一致の辯
寶鏡窟記
寛延元年四月八日の作と成っている。伊豆の賀茂の一人の漁師が見つけた。
「鏡岩」に就いて、これを寶鏡窟或いは弥陀窟と言って書き表したもので、
そこには三身を説き、また念仏の魚を引き合いに出し、仏というものはその人の信心の浅いか深いかに依って、
感応仏の応じ方が変わる事を教えている。これは禅画にもよく画題で見られる。

兎専使稿
尺  牘
薬病相治の説(書)庄司幽斎に宛てた心身安静静養の書。53歳。
渡邊平左衛門に與ふる書

辻 談 義
これは現代に生きる私たちにも、是非見て頂きたい談義であります。
人は只いたずらに未来に対して不安とおそれを抱いている、
死んでどうなるのだろうか、或いはこの先人類はどうなるのだろうか、と。
その時白隠は来世、未来にただ欣求するのではなく、
現実にこの地上で見性成仏を禅師が私たちに薦められた法話である。

見性成佛丸方書
これは仏教の成り立ちと起源とそれに伴う伝統というものを、
また日本における仏教の諸宗派の中で、いかに禅宗の見性成仏の教えが優れた功徳を持つかを説かれている。

寝惚の眼覺
安心法興利多々記
これは浄土門の碩学として知られる京都洛西の祥雲寺住職俊風上人の来訪を受けて、
それに応えられて贈られた白隠自らの著書であります。
そこには、たとえ話として仏教というものを一つの商品の様に見立てて、
大昔から現代に至までの廣く通ずる事とか、その展開して行く様とか、
その反映して行く有様などを示された本であります。

施 行 歌
大道ちよぼくれ
御酒落御前物語
おたふく女郎粉引歌。おたふく女郎の歌う粉挽き歌に合わせて、「寂滅をもって楽となす」と説く。
最初は人生の無常を説き、六道を輪廻する、とくに死んでからの地獄に堕ちる地獄の有様を説き、
次にはこの様な人の現世での生き様を暴いて見せて、真の平安にして極楽に遊ぶとはとは何に依るかと教える。
こり禅画によく見られる画題である。

主心御婆々粉引歌
上に菩薩の心を求め、悟りや見性を理想と掲げ、下には衆生済度民衆の教化の実践を僧侶にも、
民衆にも(凡聖共に)その心を忘れぬようにと戒める。老婆親切を粉引き歌に合わせて老婆が歌う。

御代の腹鼓
ぬのつつみ(布鼓)30歳 蔭涼寺より、郷友の渡辺平左衛門の不幸を戒め、悔悛させて篤信の人とした。

寒林貽宝
   46歳 明和六年刊行 仏祖の言葉に親しみ、命根を断じて忘我を得るため察女に与うる書
   53歳 庄司幽斎の子察女に看病の要訣を書す

寒山詩闡提記聞
   57歳 延享三年刊行

以上禅師著書


白隠が拝請を受けて講じて講本、評唱などに用いた講本
白隠禅師提唱の講本
始めに少室六門集に始まり、祖禄として臨済録、碧巌録、無門関、虚堂録、佛光録、
人天眼目、松源録、正宗賛、大慧書、禅門寶訓、大慧武庫、四部録、寒山詩、槐安国語等
経論としては維摩経、遺教経、楞伽經、金剛経、佛祖三経、楞嚴經、法華経、寶蔵経
護法論、原人論 等

これらの語録、教典などを縦横無尽に講じた白隠は超人としか言いようがないような気がします。


  白隠下の人々(嗣法の大法)
白隠を慕い多くの師家の中から、特に古月派の下を去って参じた禅將達もありそれ等を含めて挙げてみました。

白隠下の人々(嗣法の大法等も含めて)順序は白隠年譜記より
この「その後の白隠」では沢山の白隠会下の龍象の名が出てきます。
分かり易くするために久参古参の人々より挙げてみました。
ご参考にして「その後の白隠」を読んで頂ければ幸いです。

◎在家の人々居士大師
白隠の名声が轟くとみな争うように松蔭寺白隠の門に参礼し、或る者は禅要を訊ね、
又ある者は政道まで尋ねてきたが、白隠は誠信を誰にでも傾けたのでした。
居士はその主な人は
松平防州、岡山池田候、佐賀鍋島候、石井玄徳、杉澤宗信、古郡兼通、
織田信茂、山梨治重、世継政幸、池田大雅、堤行盛、香川景樹、梁田某、了徹居士、
自洞居士、兼通居士、玄徳居士、幽徹居士 他に俳人蓼太 等ど
大姉は禅妃(女性)お察、政、大橋女法恵林、伊那の三人娘さん、きよ、かめ、他多数。

◎白隠会下り雲納
・雪店恵発 60歳 (1750) 
大聖寺徒(白隠の兄弟子)沼津椎路「龍雲寺」住職
・紹岩玄隆 (1765)  
白隠行脚中の同侶 栃木「福泉寺」住職
・雲山祖泰 63歳  
白隠と同齢 沼津永明寺徒 沼津「金剛寺」住職 古月下より転錫
・超宗解脱 (1746)  
富士天沢寺徒 比奈「無量庵」看坊 師最初の参禅者
・貫宗慧林 (1759)  
林泉庵(後龍沢寺に併合)看主 終生師に随す
・弁的首座 73歳  
山梨建忠寺(廃寺)師の極貧時代典座として虫入りの汁を喫す 演法す
・楞山慧脱 (1733)  
妙心寺へ出世 師74歳時 演法す 古月下より転錫
・良哉元明 81歳 (1786)  
名古屋総見寺徒 古月下を歴参の後 師より受印可
・鐘山霊祐 64歳 (1764)  
東福寺塔頭退耕庵徒 師に参じて後「退耕庵」住職
・仙彰禅寿 (1785)  
沼津清梵寺住職
・江国元周 (1775)  
沼津口野「永昌寺」晋山の頌を賜る 演法す
・舜田慧三 (1766)  
清水清見寺徒 山梨「圓蔵寺」住職
・大川禅納 56歳 (1759)  
秋田大悲寺徒 秋田「応供寺」八世
・祖 精 (1789)  
三島田種寺四世 心経寺より龍沢寺譲り渡しを斡旋す
・統谷禅沙 (1762) 
大分吉祥寺八世 随待久参底の人
・源 詳 消息不明  
新潟関興寺円覚寺派 林際寺会後の久参底の人
・文 忠 消息不明  
岡山蔭涼寺徒 師六十歳林泉庵会後の久参 山科巣林庵に住す
・玄 軾 消息不明  
久参の侍者 息耕録普説の印施解を録す。道学兼備の徒
・固渓明碩  
越後徳昌寺徒 林際寺会後の久参 湯沢宝珠庵に住す 円覚寺派
・快厳智徹 89歳 (1791)  
甲州長光寺十六世 古月に参じて後師に参究訣す
・大休恵昉 60歳 (1774)  
宝福寺74代 古月に久参後師に参久後訣す 四部録演法
・圓桂祖純 53歳 (1767)  
松江天倫寺七世 道俗に帰依せられ道誉を挙げる
・天崖元魯  
甲府東光寺十六世 恵林寺徒 槐安国語編集に尽くす。著書に釈迦応化略
・快龍恵松 65歳 (1748)  
富士源立寺後無量庵看主 師の兄弟子たるも弟子となる
・梁山存  
浜松徳正寺徒 学問に優れ 廃寺の復興をす 浜松「寿量院」に住す
・原訳曇仙 (1755)  
佐伯養賢寺徒 古月下に歴参後師に参ず 八尾「中正寺」に住す
・霊源慧桃 65歳 (1785)  
鹿王院に住す 古月下大道後師に参じ訣す
・葦津慧隆 50歳 (1769)  
島根永徳寺四世 久参訣す 常に白刃を構う
・諄叟祖諒 (1797) 
秋田海禅寺看住 大悲寺徒 久参にして訣す
・梵寿鳳瑞 (1770)  
遠州「地蔵寺」十三世 師74歳の時虚堂録会を設く
・聯芳智昌 (1770)  
都留市桂林寺七世 師57歳時碧巌録会を設く格外の法誼続く
・貫宗会通 79歳 (1777)  
静岡龍潭寺十世 久参受印 師64歳時息耕録会を開く
・月休無隠 (1778)  
都留市桂林寺9世 83歳時龍沢寺での荊叢毒蘂会の役位
・滄海宜運 73歳 (1794)  
明石龍谷寺(霊光妙隠禅師)師の臨終に側侍 南禅僧堂師家 古月下より転錫
・提州禅恕 60歳 (1778)  
大分自性寺12世(大悲浄智禅師) 柤叢毒蘂の発刊に尽くす
・指津宗琅 61歳 (1786)  
京都幡桃院八世 画家応挙が参禅す 画を応挙に習う
・斯経慧梁 66歳 (1787)  
京都海福院六世(扶宗大綱禅師) 圓福寺を興し僧堂開単す
・劫運祖永 (1744)  
松本慧光院七世 師正受庵にて知遇す。師59歳時参究訣す
・東嶺圓慈 72歳 (1792)  
龍沢寺二世(創建 佛護神照禅師)22歳で古月下より参ず
・遂翁元慮 73歳 (1789)  
松蔭寺六世 栃木報恩寺徒 宏慧妙譜禅師
・濃川道温 67歳 (1784)  
愛知華蔵寺九世 多年師事し龍沢寺開創、松蔭寺継席に尽す
・曹渓智脱 66歳 (1769)  
大津正法寺四世 東嶺の勧めで来参究訣す 道俗を教化す
・大痩放石 66歳 (1785)  
浜松方広寺派光正寺 多年参侍 息耕録印施解を書す
・江西慧顯 75歳 (1776)  
岡山曹源寺七世 城主の請により師推薦
・梅叟中頤 (不詳)  
群馬崇福寺 山縣大貳事件に関与し追放 沼津常照寺会和韻集記録者
・玄室宗美 (1782)  
清水大乗寺十一世 師の道友南龍の遺属により推挙赴任
・格宗浄超 80歳 (1791)  
三重法泉寺二世黄檗本山二十二代 富士瑞林寺より通参訣す
・九峰主拙 76歳 (1779)  
香川常徳寺四世 侍する事15年究訣す 門下三頓の一人
・恵昌尼 (1764)  
海船寺看住 清見寺陽春の徒 師に侍親灸す 東嶺と親交あり
・愚庵義龍 80歳 (1787)  
福知山龍雲寺 古月派を歴参後参じ参訣す 地方に宗風挙る
・龍寿単州 (1816)  
京都天竜寺派少林寺六世 墨跡名品有り
・輝窓智覚 (1770)  
滋賀長勝寺四世 東嶺に無量寺を託すを師に変わって説得す
・死心慧活 (1776)  
富士法雲寺七世 師69歳ここに五祖録を講ず
・悟庵禅總 83歳 (1767)  
浜松廣厳寺七世 古月下老宿 師に請益す 師の道友
・毒鼓恵音 (1780)  
浜松圓通寺住職 法廣寺派大道寺輪番
・玄道禅理 (1822)  
静岡函南香徳寺 龍沢寺開山普説記に侍者と在る
・石鼎道剛 73歳 (1782)  
清水龍津寺三世 師72歳雪斎遠忌維摩会を設け行実記を録す
・大霊紹鑑 84歳 (1807)  
羽島少林寺 大圓覚心禅師 師74歳演法す 大乗寺に退栖
・層巓方邃 61歳 (1782)  
飯田龍翔寺六世 古月派に歴参す後師73歳に受印す
・大虫慧岑 (1781)  
師73歳瑞応寺会中受印す 師の末後の大会に随喜補化す
・業海宗牧 70歳 (1792) 
飯田長久寺 京等持院 副住持より転住
・独天黙笑 (1773)  
飯田大雄寺十二世 師73歳法華経会を設く 師演錫中の連絡所
・別州義弁 74歳 (1781)  
岡山少林寺六世 師67裁川老金剛経会を開く 名庭園あり
・快庵宗実 (1813)  
岡山蔭冷寺七世 常照寺会参会後参究す 少林寺曹源寺講会を補
・遼天宜頓 67歳 (1793)  
愛媛大乗寺七世 住山三頓の一人 住山三十年接化 藩主帰依
・文演正敦 (1780)  
松島瑞巌寺百十一代 師遷化後東嶺参し印可 陽徳院を経て入院
・通翁文樞 (1764)  
平田市康国寺五世 多年参侍 世継居士より仏舎利寄進現存す
・拙庵全材 77歳 (1807)  
平田市康国寺六世 師の甲信路巡錫に随行 後大休に受印
・夾山戒珠 (1784)  
大阪江国寺七世 師の甲信路巡錫に随侍 龍澤寺息耕録会参会
・関栃慈訓 80歳 (1808)  
京都興福寺 伊豆正眼寺徒 久参の人 道誉高し
・団禅楚団 (1808)  
長野龍岳寺十二世 師72歳時 甲信路巡錫皈途演法印可 三大達磨
・古同宗文 (1784)  
無量寺看坊 龍沢寺副寺 東嶺に随侍補化 遠州地蔵寺に示寂
・長沙恵法 72歳 (1781)  
浜北瑞応寺六世 容易に入得せず投身に臨み旭輝見て豁然大悟
・頑極禅虎 (1794)  
兵庫市川大梵寺四世中興法祖 師臨終の投薬す遺骨を得て同寺に塔す
・長泉智牛  
清水慈雲寺開法一世 大分延命寺徒 師72歳宝鏡三昧会を布演す
・神州義敦 (1798)  
津山本源寺十世 参久して受印 三頓の一人 藩領主に帰崇さる
・天室紹然 (1769)  
名古屋龍珠寺九世 門下六法子の一人 師74歳同寺に演法す
・還渓祖提 75歳 (1794)  
浜松正光寺八世 寿量院梁山の法兄 印可 白隠宗風を宜揚
・一翁布毛 (1794)  
東嶺の肉弟 兄と形影を共にし補益す 至道庵看守 終生世に表れず
・鳥堂慧忠 (1788)  
福岡大生寺八世 古月より転錫 師の元に発狂するも住山20年
・華頂文秀 88歳 (1827)  
滋賀正明寺 師に参する事三年師遷化の為帰山後万福寺25世
・大同曇慧 55歳 (1827)  
臼杵月桂寺十二世 紅輪大宙禅師 参叩究尽す 師自画像与す
・峨山慈棹 71歳 (1797)  
東京麟祥院 月船の徒 大方妙機禅師 諸匠歴参遂に桃林寺会に参じ力量に屈服し師に参究す
・龍山雲持 (1804)  
岐阜慈恩寺八世 師に参究 後清泰寺瑞岩に受印
・弘厳玄倪 74歳 (1821)  
兵庫高源寺二十一世 師末後の大会に初参研讃す 東嶺に参訣
・大提方演 73歳 (1810)  
小浜圓照寺六世 東嶺徒 東嶺に印可 師晩年参ず 南禅寺師家
・鉄鑑道生 84歳 (1788)  
岐阜眞正寺五世 師60歳林泉庵に参会 74歳瑠璃光寺会随喜
・天瑞元提 (1805)  
東京済松寺六世 師74歳瑠璃光寺会随喜
・宏道祖英 (1784)  
浜松法林寺八世 師79歳禅門宝訓会を布延す 和韻昆崙集を遺す
・安山宗胡 (1780)  
佐賀光桂寺 久参の徒 息耕録普説の録者
・牧翁慧水 (1778)  
飯田大雄寺十五世 師と法縁探し 72歳法演す
・開重宗鉄 (1770)  
静岡臨済寺十四世 師道友鏡水の嗣席 師64歳息耕録会を設け開山大休禅師の二百年遠忌を修す
・闡叟紹提 (1773)  
秋田応供寺八世 大悲寺徒 法兄弟大州と林際寺会に同参後師事す
・旭窓義果 (1793)  
富士市天澤寺六世 静岡市光増寺石梁禅古は白隠の道友の弟子 白隠に師事する事多年。
※大聖寺秘蔵墨跡に白隠禅師作「杖払図」がある。それには駿州光増寺徒義果上座
佛誕生とある。恐らくは見性の印か、印可の印か 江戸時代より大聖寺に伝わる
その出来栄えからして「杖払図」中の名品と言っていいだろう。大聖寺二十世記す
商隠令喆 (1817) 愛知妙光寺 東嶺の徒 師に参請 天明四年入院

白隠禅師蓬莱雲納以上96名

この中でも以下の
  鵠林(白隠)門下の四天王は 微細の東嶺禅師 大機の遂翁禅師 悟りの大休 そして
道力の峨山は後の白隠派を今日にもたらした隠山・卓洲を会下に生んだ大宗匠と言えるかもしれない。

  白隠禅師に寄せて
  ZEN 「ひじり」白隠 作詞、作曲/上村貞嘉
 
1.その名も高い 富士の山
  駿河の国に 呱々の声
  童子の慈悲は溢れ出て
  無常の風を 噛みしめる
  無明の空は 黒い雲
  さとりを尋ね道を聴く
  凡てに応じるは この白隠
 
  2.遠く求める儚さに
  無明の影を 慕いつつ
  悟りの道を窮めんと
  いのち(生命)を賭けた禅の道
  荊の林を歩みつつ
  我の知らない我を看る
  凡てに応じるは この白隠
 
  3.四智円明の月は冴え
  衆生は本来仏なり
  衆生の他に仏なし
  山の小鳥や 虫の音も
  四季を彩る いろどりは
  謡うも舞うも 法の声
  凡てに応じるは この白隠
 
  4.菩薩の月は照らしつつ
  ひじりの道を照らします
  この時 何をか求むべき
  当初は即ち蓮華国
  この身は即ち仏なり
  このまま禅を修します
  凡てに応じるは この白隠
 



▲上に移動